江戸下町職人訪問記 すみだに残る手仕事を見に行こう。

 

江戸下町職人訪問記

 


 

 

 

とある由縁から墨田区の業平に二週間ほどの間、滞在することになった。

 

私は新たな土地に訪れると自らの足で寺社仏閣を中心に路地を散策し、その地からまだ微かに感じる事ができる歴史や郷土の残り香に触れる事に喜びを感じる者である。

高くそびえ立つスカイツリーのふもとにはうねりが入った一本の梅の木がちょうど満開を迎える時期であった。

足急ぎに行き交う行楽者もしばしその美しい赤の蕾に足を止めカメラを向けている姿をみると、日本一高いランドマークは、ともあれ人々はふと佇む可憐な自然の姿に心を打たれるのであろうと感じる。

 

梅の木が匂いを立ち上げる時期になると私は

菅原道真が太宰府に流される際に詠んだと云われる

『東風吹かば–』の一句が頭をよぎる。

 

「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」
 [拾遺・雑春・菅原道真]

 

このあまりにも有名な一句は道真公の知性と風流さを後世の私達に伝えてくれる。

真意の程は定かではないがその道真公と深く親交があったと云い、伊勢物語のモデルになった伝えられる同じく平安初期の歌人である在原業平が東下りしこの地で都を想う歌を詠んだ所縁によって

この地は業平(なりひら)と呼ばれることになったという。

そんな土地の歴史も深く、関東大震災、東京大空襲と二つの大きな被災を受けながら戦後は復興を成し遂げ近年においてはスカイツリーが完成された事によりなにかと注目される機会が多い墨田区であるが、職人による伝統的な手仕事が数多く残る街でもあったのだ。

 

すみだ3M(スリーエム)運動

 

 

墨田区の産業PRと地域活性化を図る事業で

「小さな博物館」(Museum)

工房と店舗を一体化した「工房ショップ」(Manufacturing shop)

高い製品を創る技術者である「マイスター」(Meister)

の三つのMからとった1985年にスタートした活動で

詳しい運動の内容はこちらに記載されているので省かせていただくが、

その中の「小さな博物館」と名付けられた工房には、各分野の仕事場の一角にその専門性の歴史や、作業工程、道具などが展示してあり博物館としても機能する場になっている。

現在の両国から向島にかけては町工場と共に手に職を持った方々が数多く点在しておりその背景にはどうやら江戸の街が大きくなるにつれて隅田川を挟んで

山の手内が商業や武家の町として栄えた事により、対岸にあたる向島、本所(現・墨田区)には江戸の町を支える職人達が多く住みついたことが大きな理由1つとしてあげられる。

 

『日本文化の再構』をテーマに掲げる私には「手仕事の国、日本」とも呼ばれるこの国を支える各工芸の見識を深め自分の眼に焼き付ける必要があると思った次第であり、そんな街角の一角で伝統ある手仕事を生業としてる工房を時間の限りに回ってみたので少しだけ紹介をしたいと思う。

 

事のはじまり

 

 

まず初めに訪れたのが屏風博物館と併設されている『片岡屏風店』。

たまたま隅田川近辺を散策しながら地図を眺めていると「屏風博物館」と書かれているのが眼につき足を運んだのが今回の職人訪問記のはじまりであった。

片岡屏風店さんは一階が博物館兼ショップ、二階が作業場になっており団体で事前予約を取れば屏風作り体験もできるようになっている。

こういった各工藝の手仕事を体験できるのも、「すみだ3M運動」に加入している工房の特徴の一つで、屏風の歴史のパネルや、製作に必要な道具、屏風の作り方の過程など、屏風に関する様々なものが展示してあった。

 

 

屏風の作りから見える先人の知恵

 

 

美術館などで屏風絵を見る機会はあるが、それが元を辿ると何の為に作られたものだったのかはあまり知られていない。

その答えは「屏風」という文字に表されているという。

風(カゼ)の屏(ヘイ)とかかれるように

明治以前、古来の日本の建築物はすべて木で建てられる木造建築であったため、厳しい寒波が吹く季節では部屋の間を隙間風が行き交う状態であっただろう。

その屋内の生活において風を遮る用途の為に屛風は生まれたという。
起源を遡ると中国から伝来してきたものであり古くは正倉院の宝物にみられように奈良時代にはもう日本に現存していたことになる。

屛風の構造は、障子や襖と同じく木の格子で造られた枠に、和紙を複数に重ねて表面に絵が描かれ、作られた枠に表と裏から交互に和紙で継ぐ事により風を通す事なく、両方向から折りたたむことが可能になり大きな屛風でも畳んで持ち運びができるような造りになっている。

 

和紙により交互で繫がれ、両方向からも折畳めるように作られた屏風の継ぎは先人の知恵

 

その屋内における防寒や仕切りに用いる為に作られた屏風だが、時代が下りにつれてその室内装飾的意味合いが高まり屏風絵が発達し、尾形光琳『紅白梅図屏風』や長谷川等伯による『松林図屏風』などの日本を代表する芸術作品が生まれてくる。

この話を聞いて私の頭の中で結びついた事はやはり日本における芸術性は日常生活の中に宿されてきたという事である。それは、食事に使う陶器の焼き物であったり、屏風と同じく間を仕切る役割を果たす襖絵であったりこの国では常に人々の生活に密着するものに美が見い出され表現されるのである。

そんな日本の生活と側にあった屛風であるが近頃で、私達が一般生活において眼にする機会があるといえ式典など際に演台の後ろに大きく飾られる金屛風くらいではなかろうか。

こちらの屏風店ではお土産用に最適なミニ屏風から、ときにオーダーメイドで自らの趣向性を反映させた屏風を調度することも可能との事だ。依頼者が自らが書いた書画や思い出の着物や、中にはTシャツを屛風として仕立てて欲しいとのオーダーをも承回ったというお話を聞かせて頂いた。

高断熱の住宅化が進み、部屋を仕切る必要性がなくなりつつある現代日本の生活において新たな屏風の使い方を見い出す必要性を感じた。

 



 

粋な柄  江戸小紋

 

次に訪れたのが江戸小紋博物館と併設されている『大松染工場』。

 葛飾北斎の有名な冨嶽三十六景が軒先に大きく描かれているこちらでは染物の一種である江戸小紋と江戸更紗の博物館になっている。

 

大松染工場

 

日本は染物の国と呼ばれてもいいほど、その歴史の中から多くの技法の染色方法が生まれて人々の衣の生活を彩ってきた。

染色の技法が飛躍的に発展した江戸の時代に生まれた江戸小紋と江戸更紗はその成り立ちと背景には各々の違いがあるが、共に『型染め』と呼ばれる型紙を使って染める技法が使われ、

大きな違いとしては『小紋』は一つの型紙を使って細やかな柄を染めるの対し、『更紗』は多数の型紙使って浮世絵のような手法で色を重ねて複雑で繊細な文様を染め上げる。

江戸小紋は幕府から質素倹約が求められていた時代にそれを逆手にとった諸大名達による洒落っ気心から生まれたものであり、江戸更紗はその緻密な文様を作り出す為に時に数百枚の型紙を用いることもあると云う。

こちら大松染工場さんでは小紋と更紗の成り立ちについての説明や染物が出来上がるまでの行程が展示してあり当時使われてた小紋染めの布地も展示してある。

事前予約制で実際に型紙を使っての小紋染めの染体験も可能だ。

 

小紋染めの体験場(体験は2名〜)

 

江戸小紋、更紗ともに彫刻によって文様が彫られた型紙にヘラで糊をおいて染め上げる。

型紙は濃くくすんだ茶色で触れてみるとパリッと堅く 丈夫なものであるのだが、聞くとこの型紙には手すきの和紙を何枚ものに張り合わせて渋柿で染める事によって作られるとのことだ。

私にとって柔らかいイメージが強い和紙が重ねて自然素材で染め上げることによりあんな強固なものに変わってしまうことに驚きを感じた。

こちらでは、立ち去り際に手拭いを買い求めた。

小紋染めではないが、余った着物の生地を手染めで染められたもので、商品に染めに滲みやが少しあるので、難ありとされ四枚セット格安で売られていたものである。
手拭いはプリントによって着色されたものは片側の表面だけに柄がでるが、手染めで染められたものは生地の裏にも染めが抜けて、両面から文様が確認できると云う。

近年、お土産屋で良く眼にする「手拭い」は現代風にモダナイズされたポップな柄が多いが、こちらで売られているものからは江戸の粋が受け継がれているような柄を見い出せた。

ちなみに『手拭い』はタオルに比べて薄手であるからに、手洗いでさっと洗ってすぐ乾かすことができ、手拭き、スカーフや包みにも使える万能アイテムだ。

 



 

 

日本文化の融合が生み出した押絵羽子板

 

日も暮れ始めたので足早に水戸街道を歩きこの日最後に訪れたのが押絵羽子板を多く展示してある、

『羽子板の鴻月』。

 

羽子板の鴻月

 

羽子板といえばお正月遊びである羽根突きに使われるイメージが強いが、鴻月さんで作られているのは実際に羽を突くものではなく、押絵と呼ばれる立体的な布地で飾りつけた鑑賞用の『押絵羽子板』と呼ばれるものだ。

店内にはところ狭しと沢山の羽子板が並んでおり、その多くは歌舞伎役者の顔や美人画を型取ったもので中には1m近くを超える大きさの巨大な羽子板も展示してあった。

江戸時代に歌舞伎役者の人気は程凄く、その時代のファッションリーダーであり現代でいえば芸能人みたいなものにたとえられるだろうか。人々はこぞって自分の贔屓の役者の押絵羽子板を買い求めたと云う。

近年でも歌舞伎の好きな演目を目当てに羽子板を集められたり、また女の子の初正月を迎える際の成長のお祝いにと買い求める人達が主らしく、ここからも程近い浅草寺では12月の17〜19日にかけて羽子板市と呼ばれる歳の市が毎年開かれその3日間は露店通り一面が、羽子板でうめ尽くされるとのことだ。

 

押絵羽子板の歴史

 

こちらにて押絵羽子板の成り立ちについて聞かせて頂いたのだが実に興味深い内容だったので、紹介したいと思う。

まず羽根突きの歴史はすでに室町時代には『御所において羽根突に興ぜられた』と記されており
近年その姿を見られる事が少なくなったが、

女の子の健やかな成長を願う遊びで正月に厄祓いとして羽根突きをするのがこの国の長らく続いてきた風習であった。

では何故厄払いとして羽を突いたのか、それは子供を病いから守る願掛けを見立てものであった。
現代においては生活習慣病によるがん・心臓病などの病気が死因を多くを占め恐れられているが、医療の発達が未熟でワクチンが発見される以前の生活では何よりも怖いのは日本脳炎、マラリア、天然痘などの感染症であった。

そんな嫌味きらわれる伝染病の多くは蚊を媒介とするものであり
その疫病を運ぶ蚊を食べる虫であるトンボは勝虫として日本で昔から愛される虫であった。

羽根突きに使う黒い玉は、ムクロジと呼ばれる堅牢な木の実の種が使われ
その大きな黒い丸に羽をつけたものを、落とさないようにトンボが飛ぶ姿に見立てられたのである。
ちなみにムクロジは漢字で〔無患子〕と 読んで字の如く、子どもが患わないと表され、さらに羽子板の形はうちわと同じで末広がりで縁起が良いとものとされて来た。
そんな羽根突きの文化は江戸時代に入り民衆に広まっていったと云う。

 

月次風俗図屏風 出典:東京国立博物館

 

一方の押絵は布に綿を入れて切り貼りしながら立体的な絵を作る技法であり
こちらも時代は遡り平安時代から続くもので、宮中の女官たちが絹や織物の端切れ布地を使い『屏風』や『香箱』をあしらったのがはじまりとされるエコで日本的パッチワーク装飾ともみれるだろう。

この二つの日本文化が幕末に融合したのが『押絵羽子板』のはじまりだという。

日本は昔から二つの文化の良い所を吸収し変容し新たな文化を創りあげる事が優れた民族である。

 

 

結びに

 

今回は3つの工房を回った、とある1日について記したがこの他にも隅田界隈には沢山の職人と工房が点在している。

是非、墨田区に訪れた際はスカイツリーの観光のみで終わらせるのではなく、私達の国の文化と生活を支えてきた連綿と続く手仕事を見て回ることをお勧めしたい。そこには現代の生活には忘れさられた新たな気づきが隠されているかもしれない。

 

 

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